John Donne

「The Cambridge Companion to John Donne」に非常に興味深いエッセイが載っていた。
A.S.Byatt Feeling thought: Donne and the embodied mind

The pleasure Donne offers our bodies is the pleasure of extreme activity of the brain. [......] He is thinking about thinking.

Donneの詩の素晴らしさはその詩的表現の素晴らしさではなく、読者の頭を使わせることであるというのは大いに賛成する。Donneの詩は、例えばShelleyの"Ozymandias"のような荘厳さはなければ、Blakeの"The Tyger"のような力強さもなく、Shakespeareの"shall I compare thee to a summer's day"といった具合に一心に愛を詠ったものでもない。*1Donne詩はそれらの詩と比べるとむしろもっと難解で詩的ではないパズルのような印象を与えるものだと思う。

例えば"A Valediction: Forbbiding Moruning"では恋する二人の魂を金箔に喩える。

Our two souls therefore, which are one,
Though I must go, endure not yet
A breach, but an expansion,
Like gold to aery thinness beat.

しかし、次のスタンザでは即座にこの喩えを放り出してしまい新たな喩えを持ち出す。

If they be two, they are two so
As stiff twin compasses are two ;
Thy soul, the fix'd foot, makes no show
To move, but doth, if th' other do.


And though it in the centre sit,
Yet, when the other far doth roam,
It leans, and hearkens after it,
And grows erect, as that comes home.

なんとDonneは恋人を円を描くためのコンパスに喩えてしまう。Donneは女性をコンパスの針のある側、男性を鉛筆をつける側に喩えることで、常に男性のほうを向き続ける女性と最期にはそこに戻ってくる男性を描く。そうすることで、Donneはこの一見滑稽にすら見えるイメージを最大限に生かすのだ。こういった即座には意味のつかみにくいイメージを用いるのがDonneの特徴でもあり、彼が形而上詩人と呼ばれるゆえんだろう。そしてそこにDonne詩の素晴らしさもあるのだ。難解な詩のイメージを理解したときのカタルシスというのは計り知れない。*2
Donne詩を読むときにまず思い起こすべきは一見題材と無関係に見える物を詩の中に取り込み、それを生かしてしまうDonneの才能ではないだろうか。彼の知識の幅の広さは相当なものであるし、それを正しく理解していたからこそ素晴らしいイメージとして詩の中で生きてくる。彼は間違いなく、歴史上もっとも異質な詩人の一人であるとともに、もっとも優れた才能を持った詩人の一人でもあるだろう。

*1:もちろんそうしたエッセンスはDonneの詩にも見られるけども…

*2:Samuel JohnsonはDonne詩のこういった側面を詩的ではないと批判していた。はず。